[母] 雑記

[食育考] 育てているのは味覚だけじゃないはず。

先週、こんなこどもごはんの日があった。

 

水曜日


納豆ご飯・お味噌汁・ナスの照り焼き・人参の胡麻和え・サンマバーグ・ブロッコリー・ポテサラ

 

金曜日


豚肉とねぎの卵チャーハン・お味噌汁・ひじきの煮物・きのこのさっと煮・ぶりの照り焼き・キャベツの塩昆布和え・人参の胡麻和え

 

水曜日のサンマバーグと、金曜日のチャーハンは、以前出した時は食べ渋ったり全く食べなかったりしたのに、この日は見事に完食してくれた。

 

前回、サンマバーグを出した時は、ひどく食べ渋った。

そこでひと口食べるごとに褒めちぎり、イエーイとハイタッチをして食べてもらった(お行儀…)。

今回はそれを覚えていたのか自分から口に入れるたびに両手をこちらに向けて「イエーイ」とハイタッチを要求(笑)、実に楽しそうにたいらげてくれた。

 

チャーハンは、もともと納豆ご飯以外の混ぜご飯の食べが悪かったキキが、中華街でチャーハンをもりもり食べたのでそろそろ行けるかと少し前に出してみた。

その時は、プロとアマチュアの差か、まったく食べてもらえなかったのだが、今回は美味しいというジェスチャと共にお代わりまで。

 

子供の好き嫌いは、あってないようなものだと、毎度思う。

 

食育系の情報を見ると、子供の味覚の発達は3歳まで、10歳まで、12歳まで、とばらつきがあってよくわからないが、それでも10年程度で発達のピークを迎え、それが一生の基盤となるようだ。

と聞くと、10歳までに食べたものだけが、その子が生涯食べるもの、のような気がしてしまうが、そんなわけはない。

人間いくつになっても好奇心と食欲があれば、新しいものを食べてみるものだと思う。

ここでいう基盤は、所謂、おふくろの味のようなものだと思う。

 

私自身を振り返ってみると、嫌いなものより好きなものを数えた方が早いというほどの好き嫌いぶりで就学期を終えた。

それどころか、20代半ばあたりまでは好きなものは数えるほどしかなかった。

で、40代に入った今どうかと言えば、嫌いなものを数える方が早いほど、味覚がおおらかになった。

たぶん、今が一番、食べることが楽しい。

 

生物学的に言えば、それは味覚が退化して鈍感になっているというマイナス方向への変化なのかもしれないが、QOLと言う点でいえば食生活は豊かになったわけだからむしろプラスだ。

 

退化の一方で、私がいかにして今の豊かな食生活へたどり着いたかと言えば、それは経験の一言に尽きる。

味そのものはもちろん、

お酒と共に楽しむ経験。

友達と共に楽しむ経験。

優雅な環境で食事をする経験。

地のものを味わう経験。

 

多くの経験を通して、味そのものではなくそれを含む全体を「食」としてとらえるようになり、私は味、環境、すべてを含めて豊かに「食」を楽しめるようになった。

そして同時に、これらの経験は私の食への好奇心を支え、今も新しい食との出会いを楽しむ精神を持っている。

 

それでも時々訪れる疲れた時、病んだ時。

わたしが求めるのは何かと言えば、出汁の利いた薄味の和食で、それはそのまま母の味だ。

きっと、10歳までの私の敏感な味覚に刷り込まれた基盤となる味。

おふくろの味。

 

より多くの食材をより多くの調理法で、より多くの味付けで。

それがその子の味覚を育て、将来にわたって食生活を豊かにする。

のは事実だろうし、私だってそうしたい。

でも現実には、働きながらでなくたって小さな子供を抱えて手の込んだ料理を毎日準備するのは難しい。

それに何より、子供を待たせるよりも抱きしめることに重点を置きたい。

 

子供の好き嫌いは、経験の蓄積の過程でいとも簡単に変わっていく。

今日嫌いだったものが、明日は好きかもしれない。

今日好きだったものが、明日は嫌いかもしれない。

でもめげることなく、気軽に、あの手この手で、繰り返してみる。

 

ごくんと喉を通らなくても一度舌に乗った味は、その子の人生の「安心する味」として残るはず。

それはいつかその子が辛い時、落ち込んだ時、ちょっと調子の悪い時にそっと寄り添う味だ。

 

そして提供しているのは味だけではなく体験をも提供すると心得て、笑顔で、一緒に、食事を楽しむことを重ねていけば、今の食事の素材、調理法、味わいが少々足りてないとしても、子供が自分の力で食生活を豊かにしていく力がつくはず。

 

だからつまりできることはやっぱり。

好きなものも嫌いなものも、笑顔で食卓に載せることなんだろ。

 

さて、食材の買い出しいくぞー。

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